乳がんは局所のしこりから少しずつ周りに広がるため、周りの健康な組織やリンパ節を含めて大きく取ることによって生存率(寿命)が向上すると長年信じられてきました(ハルステッドの理論)。ところが近年、乳がんはかなり早期からがん細胞が血管内を移動して全身に廻っていると言われるようになり、大きく取っても小さく取っても、生存率は変わらないことが明らかになりました(フィッシャーの理論)。現在、乳がんの手術の目的は、根治性を損なわない美容の追求に変わりつつあるのです。
どちらを選んでも生存率は変わりませんが局所再発率と審美性は変わります。
大がかりな臨床試験により、乳房温存と乳房全摘術の生存率は変わらないことが証明されました(信頼度1)。そのため早期の乳がんに対しては、乳房温存療法が推奨されています。
術後20年間の乳房温存術の局所再発率は、放射線療法を受けなかった場合には39%、受けた場合には14%でした(信頼度1)。乳房全摘術の局所再発率は2%以下です。
美容に十分配慮した乳房温存術は、乳がんの手術をしたことがわからない仕上がりとなります。
乳房温存術後の局所再発は全摘術を行えば根治可能です。そのため温存して再発してから全摘しても、はじめから全摘しても生存率は変わりません。
一口に乳房温存といってもいろいろな方法が行われています(図3―2参照)。術前検査でがんの広がりを推定し、術中も技術と経験によって取り残しがないように努めます。いずれの方法でも生存率は変わりませんが、局所再発の予防のためには術後の放射線治療が不可欠です。
しこりの周囲にわずかな正常組織を付けてくりぬきます。乳房の変形は軽度ですが、断端陽性(切り口にがんが残る)になる可能性があります。
通常の温存術はしこりの周囲に2㎝程度の幅で正常組織を付けて切除します。乳房の内側、特に下方にできたがんに部分切除を行うと、変形をきたします。
4分の1切除術(クアドランテクトミー、扇状切除術)しこりを中心に乳房の4分の1を切除します。
4分の1切除術は大きく取るので局所再発率は低下しますが、変形が大きく、美容的には不満足な結果となります(信頼度4)。
図3-2 乳がんの様々な手術法
全摘術にも様々な方法があります。いずれを選んでも生存率は変わりません(図3―2参照)。ハルステッドの手術 大・小の胸筋を含めて乳腺を取り囲む組織をすべて取る手術で、今はあまり行われていません。運動機能障害、リンパ浮腫をきたすことがあり、再建も困難です。胸筋温存乳房全摘術 胸筋以外の乳腺を取り囲む組織をすべて切除する最も一般的な手術です(小胸筋を取る場合があります)。ハルステッドの手術に比べて運動機能障害とリンパ浮腫はきたしにくくなり、再建もやや容易になります(第6章参照)。 単純乳房切除術 胸筋温存乳房全摘術と同じですが、腋窩のリンパ節は残します。機能障害やリンパ浮腫は起きません。非浸潤がんに行われます。皮下乳腺全摘術・皮膚温存乳房切除術 小さな傷から乳腺だけを切除し、乳頭・乳輪、皮膚は温存します。機能障害はなく同時再建も容易です。局所再発率は若干高くなります(第6章参照)。
以下のような局所再発の危険因子が認められる場合です(信頼度3)。
わが国では、以下の場合に乳房全摘術が勧められることが多いのですが、乳房温存術は可能です。
がんが乳頭に近くても離れていても予後は同じですので温存は可能です(信頼度3)。乳頭は希望に応じて再建をします(信頼度4)。
腋窩リンパ節転移陽性(脇の下のリンパ節が腫れている進行がん)のときに乳房温存術で治療しても、生存率に差がないことが証明されています(信頼度1)。
豊胸術でインプラント(シリコン製の人工乳腺)が入っている乳がんの場合、乳房全摘術とインプラントの抜去が勧められることが多いようです。しかしインプラントを傷つけずにがんを切除できるなら、乳房温存術は可能です。ただし、術後の放射線療法は被膜拘縮を引き起こし、胸が変形したり固くなったりする可能性があります(信頼度4)。
患者負担を3割として、窓口での支払額を計算してみましょう。
図3-4 乳がんの手術法の選択
乳がんの治療費は医療費控除として税金の還付申告をすれば、収めた税金の一部が戻ってきます。
いつ還付申告をするのか? 所得税の確定申告は2月16日から3月15日です。ただし納税がない場合は1月から還付申告ができます。
どのような医療費が控除の対象となりますか? 表3―1を参考にしてください。
乳房再建は医療費控除の対象となりますか? ほとんどの場合対象となりますが、税務署によって見解が異なることがあるので、窓口で相談してください。過去の医療費も還付申告できますか? 領収書があれば過去5年にさかのぼって申告できます。
本人以外でも還付申告できますか? あなたに所得がなく配偶者や家族が医療費を払った場合は、その人たちが還付申告できます。
表3-1 医療費控除の対象となる医療費、ならない医療費
これまでの乳がん手術は温存術か全摘術の2つしかありませんでした。そのため乳房形態の温存を希望しても、温存術がだめなら全摘術後に再建をするしかありませんでした。しかし全摘術には再建をするうえで以下のような欠点がありました。 皮膚の欠損 がんの直上の皮膚を切除するため皮膚が足りなくなります。乳頭・乳輪の欠損 乳頭・乳輪も乳線の一部として切除されるため、その再建が必要になります。 傷が大きい 美容的に再建しても、傷が大きいために乳がんの手術を受けたことがばれてしまいます。そこで近年、皮下乳腺全摘術が生まれました。この方法は、小さな傷から皮膚と乳頭・乳輪を残し、乳腺を全摘するのですが、まだ新しい方法ですので次のことを理解してください。
20年くらい前、アメリカのメリーランド州のボルチモアで、手術のトレーニングコースが開かれて参加したことがあります。東海岸の入江に面した美しい街で、イタリアやギリシャ料理のレストランの魚介類がおいしかったなあ。会場になったのはジョンズ・ホプキンス大学。実業家ジョンズ・ホプキンスの遺産により1876年に開校した名門私立大学で、多くの指導的医師や名医を輩出したことで有名です。
そこの初代外科教授がハルステッド。彼の奥さんは看護師。当時、手術は素手でやっていたのだけど、奥さんは肌が弱く、消毒薬で手が荒れて困っていた。そこで、今も使われている手術用のゴム手袋を考案したのが彼です。
彼はまた乳がん手術でも有名でした。当時、乳がんはしこりのくりぬきが行われていたのですが、局所再発が多かった。そこで周囲の乳腺・脂肪・皮膚・筋肉でがんを包み込むようにひとまとめに取りました。これがハルステッドの手術です。この手術はその後100年間、定型的(一般的)乳房切除術として行われました。
私が医者になって最初に行った乳がん手術もこの方法です。しかしこの方法はあばら骨が浮き出て、洗濯板(といっても知らないか)のような外観となるため、多くの女性の身体と心に大きな傷を残しました。
しかしその後の大がかりな臨床試験で、胸の筋肉を取っても残しても、生存率つまり寿命は変わらないということが証明されたため、今日では胸の筋肉を残す胸筋温存乳房全摘術が主流になりました。
さらに、乳がんのしこりだけをくりぬく乳腺部分切除でも生存率が変わらないことも証明されて、100年以上かけて結局もとに戻ってしまいました。ただしこの手術の局所再発率は全摘術よりも高いので、術後放射線をかけるようになりました。これが乳房温存療法です。
日本では今まで外科が築き上げてきた乳がんの根治治療を、放射線科にまる投げするようなことは許されない、といって外科医が猛反発したのですが、1987年、朝日聞記者の生井さんが乳房温存療法の特集を組んだために、乳房温存療法を求める世論が高まり、今では乳がん手術の第一選択となりました。
鼻の頭にできたおできは局所病です。軟膏を塗ったりメスで切ったりしますよね。これを局所治療といいます。でもバイ菌が全身に回って高熱が出たら全身病です。局所をいくら治療しても助かりません。抗生物質の点滴で全身のバイ菌をたたかないといけません。これを全身治療といいます。
乳がんも同じように局所にとどまっているようなら手術や放射線といった局所治療だけで助かります。しかしがんが大きいとき、リンパ節が腫れているときは遠隔転移を起こしやすいので、抗がん剤やホルモン療法といった全身治療が必要です。
乳がん手術、リンパ節を取る手術は局所再発の予防になりますが、生存率を上げることはできませんので局所治療です。抗がん剤やホルモン療法は生存率を改善しますので全身治療です。放射線照射は局所治療ですが、生存率を少しだけ改善しますので全身治療の要素もあります。
ただし遠隔転移を起こす可能性が少ない局所病に全身治療をすると副作用ばかりでやりすぎということになります。
そこでがんの大きさとリンパ節転移の有無によってエビデンスに基づいた治療方針を立ててみましょう。
しこりが小さくてリンパ節転移がふれないものは局所病なので、しこりを小さくくりぬいて局所再発予防の放射線をかける乳房温存療法が第一選択です。
しこりが小さくてもリンパ節転移がふれるものは全身病なので、全身治療が主体です。
最近は術前化学療法(抗がん剤)を終えてから、乳房温存療法を行います。
しこりが大きくてリンパ節転移がふれないものも全身病の要素が高いので、術前化学療法でしこりを小さくしてから乳房温存療法をするでしょう。
しこりが小さくならないときは全摘をします。
しこりが大きくてリンパ節転移がふれるものは全身病です。術前化学療法でしこりを小さくしてから乳房温存療法、しこりが小さくならないときは全摘をして、さらに放射線もかけるでしょう。
つまり理屈上は乳房温存療法が第一選択なのです。
理屈上は乳房温存療法が第一選択といったばかりですが、日本では年間8万人の女性が乳がんと診断されて、うち3万人が全摘を受けています。なぜ乳房温存療法ではだめだったのでしょう。
これには日本人の体型が大きく関係しています。
寒いところに住む動物は体温の放散を防ぐために身体の凹凸が少なく丸い体型をしている。これを「アレンの法則」といいます。高校の生物の教科書にも書いてありましたね。寒いと猫はこたつで丸くなります。体温を失わないためです。アザラシは四股が短くずんぐりむっくりしています。これが寒冷地に住むにはいちばん都合がいいいのです。
日本人の祖先ははるかシベリアに住んでいたモンゴロイドです。氷河期を乗り越えるために、手足は短く、乳房は小さく、ウエストはくびれずに理想的なアザラシ体型に進化しました。ちなみに鼻は低く目は細く平面顔なのも進化の結果です(これ以上いうと女性から嫌われるのでやめておきますが)。
つまりシベリアから中国の東北地方、朝鮮半島、日本に住む女性は乳房が小さい。
欧米人は乳房が大きく、ことにアメリカの女性は太り方が半端ではないので、乳がんがやや大きくても温存は可能です。しかし日本人は乳房が小さいので、温存しても乳房の形が崩れやすい。そのため以下の場合には全摘が勧められます。
これらは小さく取るとがんを取り残し、大きく取ると変形して、取り切れても局所再発率が高く、術後は放射線をかけるため再建が難しいのです。
乳房温存療法はきれいに治ることが前提です。変形が起きそうなときやがんが取り残されそうなときは全摘となるのです。
これまでの乳がん手術は温存術か全摘術の二者択一でした。そのため温存したくても、だめなら全摘をするしかありませんでした。
もちろん全摘しても、あとから私のところに来てくれればある程度はきれいに再建できます。しかし通常の全摘はがん直上の皮膚を切除するため皮膚が足りなくなります。
そこで背中やおなかから皮膚と皮下脂肪と筋肉の一部を移植します。それが自家組織移植です。胸の傷だけでも心が傷ついているのに、背中やおなかに新たな傷がつくことは肉体的にも精神的にも大きな負担となります。また入院期間が長いことは、時間的負担となります。
皮膚の不足を植皮しないで補う方法として、組織拡張法があります。組織拡張器(エキスパンダー)というシリコン製の風船を埋め込んで水を注入していきます。しかし皮膚のたるみをつくるためには反対側の乳房よりもふくらまさないといけない。半年ぐらいして皮膚が伸びたら入れかえるので、2回の手術になり、あなたの負担は身体的にも時間的にも経済的にも倍増します。
これらの方法は乳頭・乳輪も再建しなければならず、どんなに美容的に再建しても、傷が大きいために乳がんの手術を受けたことがばれてしまいます。
そこで近年、皮下乳腺全摘術(乳頭温存乳腺全摘術ともいう)が生まれました。この方法は、小さな傷から乳腺を全部取る方法で、同時にシリコンできれいに再建することも可能です。
根治性は、乳腺をほとんど取り残す温存でも全摘でも変わらないのですから、皮下乳腺全摘術も根治性は変わりません。つまり寿命は一緒です。
でもがんの真上の皮膚や乳頭・乳輪を残すために局所再発しやすいのではと心配されます。しかし、皮下乳腺全摘術の局所再発率は全摘と変わらないと報告されていますのでご安心を。
もちろん乳房温存術と同様に、術後の病理結果で断端陽性(切り口に乳がんがある)とされた場合、および将来局所再発した場合は追加切除が必要です。
2013年、世界中に衝撃が走りました。女優のアンジェリーナ・ジョリーが両側の乳房を切除したのです。その理由は乳がんだったからではありません。将来、乳がんにならないための予防的乳房切除だったのです。
彼女がこの手術に踏み切ったきっかけは、母親が乳がんで亡くなったことでした。ほかにも叔母や祖母が乳がんや卵巣がんで亡くなっていたために、遺伝性を疑って血液検査を受けたのです。その結果、遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)と診断されました。
HBOCには次のような特徴があります。
現在、日本では毎年8万人が乳がん、1万人が卵巣がんと診断されます。このうち乳がんの約5%、卵巣がんの約10%がHBOCだと推定されます。HBOCの確定診断のためには遺伝子検査を行う必要があります。この検査は保険がききませんが、簡単な血液検査で行われます。将来的には唾液で検査することも可能になります。
私たちの細胞内の遺伝子が傷ついたときには、それを修復するBRCAI、およびBRCA2という遺伝子が働いて、正常に修復してくれます。しかし生まれつきこれらの修復遺伝子に異常があると乳がんや卵巣がんを発症しやすいのです。アンジェリーナ・ジョリーは主治医から「将来乳がんになる確率が87%」と告げられ、予防的乳房切除に踏み切ったのです。
実は私のクリニックで乳房全摘・同時再建を受ける患者さんのうち、1割近くがこの予防的乳房切除です。あくまでも健康な人が受けるわけですから、その仕上がりは美しくなければいけません。ただし保険はききませんので、慎重に決断しましょう。
ブタクサという雑草があります。繁殖力が旺盛で、空き地があるとたいてい一面に生えています。丈は1mくらいですが、大ブタクサは2~3mになります。コケや小さな花々が好きな日本人にとってはなんとも無粋で、しかも私が毎年苦しんでいる花粉症の原因になります。もしブタが好んで食べるとしたら、空き地にブタを放って根こそぎ食べてもらいたいものです。
花粉症の私はこの雑草を撲滅する方法を考えてみました。
ブタクサを根こそぎ刈り取る。
空き地全体を焼き畑のように焼き払う。
まだブタクサが生えていない空き地には除草剤をまく。
さて実は乳がんを撲滅するためにも同じようなことが行われているのです。ブタクサをがんに空き地を乳腺に置きかえてみてください。
がんを根こそぎ刈り取る…これは手術です。がんだけ取ったとき(温存手術)は再発率が高くなります(放射線をかけない場合39%)。がんだけではなく乳腺ごとすべて取り除けば(全摘術)、再発は少なくなります(3%)。
乳腺全体を焼き畑のように焼き払う…これは放射線療法です。温存手術のあとかけると局所再発率が3分の1になります(14%)。
まだがんが生えていない臓器に除草剤をまく…これは抗がん剤やホルモン療法です。乳がんの遠隔再発率は半減します。
手術後、断端陽性といわれることがあります。取った切り口にがんが残っているということです。このときに、「追加切除しないで放射線や抗がん剤で代用ができませんか」と聞かれることがありますが、抗がん剤の目的は遠隔転移の予防ですので、その危険性が高くなければやるべきではありません。放射線も抗がん剤も局所再発を完全に防ぐことはできないので、断端陽性のときはやはり追加切除を受けるべきでしょう。
「温存手術と同時に広背筋による同時再建を受けました。その結果、数ミリの浸潤がんが4つもあり、3カ所で断端陽性(切り口にがんが残っている)でした。主治医は悪質ながんだから局所再発の予防のために放射線と抗がん剤をやったほうがいいといいます」という相談がありました。
多発性乳がんということですが、それは別々にできたものでしょうか。乳がんになる確率は1000人に1人ですので、2個のがんが同時にできる確率は100万人に1人、3個ならば10億人に1人、4個同時はもうありえない確率ですよね。つまり多発性がんの多くはもともと非漫潤がんというおとなしいがんが広がっていて、あちこちで浸潤したものなのです。断端陽性が数カ所あるということはその先まで非浸潤がんが広がっています。
浸潤がんが4個あるとのことですが、それぞれが数ミリ程度の小ささなので悪質ながんとはいい切れません。早期でホルモン療法が効くがんは抗がん剤をせずホルモン療法だけが原則です。断端陽性で局所再発率が高いからといって、副作用の大きい抗がん剤を使うのはやりすぎでしょう。
またこうした多発がんにおける断端陽性は、非浸潤がんであることが多いのです。放射線や抗がん剤はもともと正常な細胞は傷つけずにがん細胞だけをやっつけるようにデザインされていますので、非浸潤がんのようなおとなしい細胞には効きづらいのです。
確かに放射線をかけることによって局所再発率は3分の1になりますが、断端陽性のままがんを取り残すと100%再発するのですから、放射線をかけても再発率は33%以上となります。
かなり高率ですね。放射線は同じ場所に二度がけできないという原則がありますので、次に再発したときは温存ではなく全摘になります。しかもすでに放射線がかかっていますので再建が難しいのです。
取り残しは取ることが原則です。多発がんに対して温存手術をすること自体が無理だったのです。しかも温存で変形をきたすので再建をするぐらいなら、全摘をして再建をしたほうが局所再発率もわずか3~6%ですんでいたのです。主治医は引っ込みがつかないのでしょうが「過ちは改めるにしかず」。もう一度原点に返って全摘をしましょう。